1917年ロシア革命(二月革命)が起こると、5月にアメリカから
横浜を経由して、ロシアに帰国する。帰国後、ブハーリンは、党モスクワ委員会とモスクワ・
ソビエトで活躍し、モスクワ市議会議員にも選出される。第6回党大会で中央委員に選出される。十月革命後、党機関紙「
プラウダ」の編集長となる。しかし、
1918年ブレスト・リトフスク条約調印をめぐり、ブハーリンは、「左翼共産主義者」グループを率いて、対独講和を主張するレーニンに反対した。ブハーリンは、ドイツ革命を目論見、
ドイツを訪問。
スパルタクス団に影響を与えるが、国外追放処分を受ける。ドイツ革命には失敗したものの、ブハーリンは内戦中、理論家として赫々たる成果を上げる。
クートヴェで共産主義に関する講義を主催し、若手の研究者の養成に尽力すると同時に、
1919年には、
エフゲニー・プレオプラジェンスキーと共同で「共産主義のABC」、
1920年「過渡期の経済学」、
1921年「史的唯物論」を次々に著し、レーニンから激賞された。1919年ロシア共産党(ボリシェヴィキ)政治局員候補に選出される。
1921年戦時共産主義政策が緩和され、
ネップ(新経済政策)が採択されるとブハーリンは、スターリンとともに
一国社会主義論の立場を取り、農民との協力体制の下、斬新的な社会主義国家建設を主張していった。
1924年レーニンの死後、政治局員に昇格する。また、
コミンテルンでも要職を占め、
1926年ジノヴィエフの跡を襲い、コミンテルン執行委員会議長に就任した。