下総国 wikipedia|無料辞書
下総国(しもうさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった
国の一つで、領域は現在の
千葉県北部、
埼玉県の東辺、
東京都の東辺、(
隅田川の東岸)、
茨城県南西部にまたがる。
総州(そうしゅう)とも呼ばれた(特に下総のみを指して
北総(ほくそう)と呼ばれることもある)。
◆ 概要
現在の
千葉県北部を主たる領域とする旧国名。北で
常陸国と
下野国、西で
上野国と
武蔵国、南で
上総国、内海を挟んで
相模国と接する。よき
麻の生いたる土地というところより
総国と称したという(
古語拾遺)。総国の北部にあたり、7世紀に
?国(
ふさのくに・総国)の分割によって建てられたとも言われている。下総は、古くは「
之毛豆不佐(しもつふさ)」と呼び、これが(
しもふさ)(
しもうさ)に転じた。この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも
畿内――より正しくは、
首都・
都――に近いほうが「上」「前」となっていて
上総国と下総国は一見逆転しているように思われがちであるが、元々
東海道は、海つ道(海路)であり、
房総半島の南部の上総国の方が畿内により近い位置関係にあった。
実際、上総と下総はよく間違われることが多い。
香取慎吾の特上!天声慎吾では、銚子市や旭市のロケで、千葉県観光協会の事務局長が出演し、千葉県出身の
渡辺正行がナレーションをしていたにもかかわらず2週にわたり「
上総」と放送し、上総の歌までつくった。
◆ 沿革
古代末期から
中世にかけて
千葉氏が台頭し
源頼朝を支援して
鎌倉幕府創設に尽力した。
鎌倉・
室町時代と守護の地位を確保し中世には千葉氏の歴代当主が下総の
守護と
権介を兼ねるようになり、特別な敬意を込めて
千葉介(ちばのすけ、「
千葉郡を領する(権)介」)と呼称された。15世紀前半の
永享の乱やその他の関東の動きのなかで千葉氏は内紛を展開、次第に衰えた。かわって下総生実城に寄った小弓御所足利義明が勢威をふるい
小田原の
北条氏と対抗した。
1538年(天文7)と
1548年(天文17)の
国府台合戦においてはじめに
足利義明が敗死、また
安房の
里見氏が敗北したことは、小田原の北条氏の強い影響を受けることになり、千葉氏やその家臣で主家をしのぐといわれた原氏、また高城氏らが従属下に置かれるようになった。
1590年(天文18)
豊臣秀吉の来攻に北条氏は屈服したが千葉氏はこれと運命をともにした。
1868年(明治2)従来の八藩のほかに、曾我野藩があらたにおかれた。そして、この地の幕府領、旗本領には下総知県事(佐々武直武のち水筑龍)の管理におかれ、葛飾県がおかれ水筑龍が権知事となり13600石余を支配した。1872年(明治4)廃藩置県によって各藩は県に改変、同年11月、印旛県の成立に伴い編入された。明治6年には木更津県と合併し千葉県の管轄地に編入された。
◆ 地域
◇古代-中世