専務取締役時代に若手技術者らから直訴され
回路研究室、
半導体研究室を発足させる。これらの研究のうち
極超短波研究は国産初の
電子レンジ発売(
1961年)を、回路や半導体研究は、
シリコン太陽電池の量産(
1963年)や、世界初の
トランジスタ式
電卓開発(
1964年)、世界初の
液晶実用化、
CMOS型電卓開発(
1973年)などを生み出した。しかし当時のシャープは自前の半導体を待っておらず、電卓に使う
ICは他社から買っていた。このため
1970年の
大阪万博不参加を打ち出し「シャープ100年の計のため
千里から
天理へ向かう」と万博へ出展する資金を天理の半導体工場建設にあてた。これは「千里から天理へ」決断として産業界の伝説となっている。これを機に創業者・早川が代表権のない
会長職に退き佐伯は二代目社長に就任、社名を「シャープ」に変更し、総合エレクトロニクスメーカーとしての第2の創業を切る。
創業者・早川以上の企業家精神を発揮、この後半導体を核とした技術開発力、継続的に差別化商品を生み出していく商品開発力の構築、
家電流通構造の転換に対応した新しい販売戦略、財務体制の立て直し、海外での生産など、積極的な経営戦略、選択は成功し電卓の他、
ラジカセ、
ビデオ、
複写機などの
OA機器が国際市場で次々ヒットし海外事業も一気に拡大した。これらをもたらした組織、人材の育成も大きな業績。"技術のシャープ"を作り上げたともいわれた
佐々木正、"ニューライフ商品戦略"を確立した関正樹、家電事業を統括した
辻晴雄、"電卓博士"と呼ばれ強烈な
電卓戦争勝ち抜きの原動力となり
OA部門を育て上げた浅田篤ら。昭和50年代(
1975年〜
1985年)の年平均伸長率は
売上高18.2%、
経常利益37.2%、10年連続増収増益、10年間で売上高約5倍、経常利益18倍という驚異的成長でシャープを
関西の一家電メーカーから、世界のシャープへ、家電から総合エレクトロニクスメーカーへ変身させた。
1987年、年商1兆円超えを花道に
1986年、
辻晴雄にバトンタッチし会長に退いた。
1987年相談役、
1998年から最高顧問を務めている。