高校1年のとき貧血にかかり、瀧田からマネージャーへの転向を指示される(これは、増田の負けず嫌いの性格をみた瀧田が故意に行ったものであった)。それに反発した増田はいったん陸上部をやめるが、半年後に復帰、「(マネージャー転向を指示した)瀧田を見返してやろう」という思いから猛練習を重ねる。その結果が長距離に転向した3年生の
1981年に開花する。4月19日に
中央大学で行われた記録会で、
10000m(33分20秒0)、
5000m(途中計時16分48秒4)の日本新記録を出したのを皮切りに、出るレースで快記録を連発、6月までに、トラックの
3000m・5000m・10000mとロードの10キロ・20キロの日本記録をすべて塗り替える。中でも圧巻は、6月7日の
アジア陸上選手権の10000m(オープン競技)で、その年の
ボストンマラソン優勝の
アリソン・ローや、同3位の
ジョーン・ベノイト(後の
ロサンゼルスオリンピック女子マラソン金メダリスト)らと互角に渡り合い、ついに彼女らを抑えて、33分13秒22の日本新記録で優勝した。身長180cmを越えるローを150cmの増田が抜き去る模様は、
国立競技場の観客を大いに沸かせた。一方、これらのレースで同走した
佐々木七恵は、あまりの速さの違いに「別世界の人」と感想を漏らすほどで、それが正式に
ヱスビー食品の陸上部に入るきっかけとなる。こうした活躍に、マスコミからは「女
瀬古」のあだ名がつけられた。(同年に放映された大河ドラマ「
おんな太閤記」の影響もあると思われる)
1982年2月21日、千葉県
光町(現在の
横芝光町)の小さな大会で突如初マラソンに挑戦する。初めてのフルマラソンは、マスコミが注目するメジャーな大会よりも、小さな大会でのほうがプレッシャーも少なくのびのびと走れるだろうという、瀧田の意向があっての出走だった。結果、2時間36分34秒の日本最高記録で優勝し、途中計時の30キロも合わせて、長距離全種目の日本記録を1年で塗り替えるという快挙を達成した。その後も3月7日の中日20キロロード(
名古屋国際女子マラソンの前身)では2位ながら1時間6分55秒の世界最高記録を更新する。これらの結果、女子マラソンが正式プログラムとなる
1984年の
ロサンゼルスオリンピックへの出場を、実業団で目指すこととなった。
社会人になってからは自己のトラック記録を更新する一方、
1982年5月のスポニチ陸上の5000mでヱスビー食品入りした佐々木に敗れるなど、レース結果に波が出るようになる。マラソンの記録も同年6月6日に再び佐々木に塗り替えられた。
1983年1月23日には、第1回の
全国都道府県対抗女子駅伝に千葉県チームの一員として参加、優勝チームのアンカーとして記念すべき最初のゴールテープを切る。しかし、その1週間後の大阪女子マラソン(現・
大阪国際女子マラソン)では貧血のため14.7km地点で意識を失って昏倒、無念の途中棄権となった。過度の練習と緊張、そしてダイエットのし過ぎによる栄養失調が原因だった。
その後、
宗茂・
猛双子兄弟の所属する
旭化成の陸上部との合同合宿に参加し、
宗兄弟から「リラックスして走る」ことを教えられて復帰。1983年9月11日に
アメリカ・
オレゴン州のマラソンで 2時間30分30秒の日本最高記録(当時ジュニア世界記録でもあった)を再び樹立。翌年のロサンゼルスオリンピック女子マラソン代表をかけて、11月の
東京国際女子マラソンに出る予定だったが、直前に足の故障で欠場(佐々木が優勝して代表を獲得)。1984年1月、前回リタイアした大阪女子マラソンに出場する。ここでは前年と一変してレース終盤まで独走するが、東ドイツの
カトリン・ドーレにゴール手前の40.9km地点で逆転を許す。しかし、2時間32分台の好タイムで2位となり、代表の座をつかんだ。