日本以外では一般に
対馬海戦(つしまかいせん, Battle of Tsushima)と呼ばれる。
対馬東沖を戦場として、
日本海軍の
連合艦隊とロシア海軍の第2及び第3太平洋艦隊(日本では「
バルチック艦隊」の呼び名が定着している)との間で行われた。日本艦隊の司令官
東郷平八郎が採用した
丁字戦法などにより、ロシア艦隊は戦力の大半を失い壊滅した。日本側の損失は軽微で、海戦史上まれな一方的勝利となった。当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせ、
ポーツマス講和会議への道を開いた。近年になって、
児玉源太郎が
ネットワーク中心の戦いを実現したことが、大勝利の一因に追加されている。
ロシア海軍は
日露戦争開戦時に日本海軍の3倍近い戦力を保有していたが、艦隊を
バレンツ海、
バルト海、
黒海、
太平洋の各方面に分散させていたため、開戦時に対日戦に投入できたのは
旅順および
ウラジオストクを母港とする太平洋艦隊(正式には第1太平洋艦隊)のみであった。ロシア指導部は太平洋艦隊のみでは日本艦隊に対抗できないと判断し、バルト海艦隊から主力艦艇を抽出して
極東海域へ増派することを決定した。派遣部隊として、
ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督を司令長官とし
[第2太平洋艦隊副司令官ドミトリー・フェルケルザム少将は航海中病死し、後任は任命されなかった。]新鋭戦艦8隻を基幹とする
バルチック艦隊(正式にはバルト海艦隊から抽出された第2太平洋艦隊)と、
ニコライ・ネボガトフ提督を司令長官とする補助艦隊(同じく第3太平洋艦隊)とが編成された。これらの戦力と既存の艦隊とを合わせれば、日本艦隊の2倍の戦力となり、極東海域の
制海権を確保できると考えられた
[ロシア指導部には海戦を行う認識は低かったと言われる。]。
しかし当時、
石炭補給が常に必要となる
蒸気船からなる大艦隊を、
水兵と武器弾薬を満載した戦時編成の状態で、ヨーロッパから東アジアまで
回航するのは前代未聞の難事であった。さらに、航路は日本と
日英同盟を締結していた
イギリスの制海権下にあり、良質な石炭はイギリスが押さえていたため劣悪な質の石炭しか入手できる見込みはなかった。ロシアと
露仏同盟を結んでいた
フランスや、皇帝同士が姻戚関係にあった
ドイツ帝国も、日英同盟によって牽制を受け、
中立国の立場以上の支援を行うことはできなかった
[戦時国際法では、交戦国の軍艦は中立国の港湾での原則24時間以内の滞在が許される。]。
1904年10月15日、バルチック艦隊は
リバウ軍港を出航した。10月21日深夜、バルチック艦隊は
北海を航行中にイギリスの
漁船を日本の
水雷艇と誤認して攻撃し、乗組員を殺傷してしまう(
ドッガーバンク事件)。これによってイギリスの世論は反露親日へ傾き、イギリス植民地の港へのバルチック艦隊の入港を拒否した。以後バルチック艦隊は
イギリス海軍の追尾を受け、これをしばしば日本海軍のものと勘違いして、将兵は神経を消耗させられた。
[西村誠著 『日本海海戦』 双葉社 2004年4月30日発行 ISBN 4575476390]